自分でもよくわからない乱文ー端的に言えば心が辛い

自分でもよくわからない乱文ー端的に言えば心が辛い

1
 もやもやして心が辛い。手垢に塗れつつあることばで言うなら、「生きづらい」というやつだ。
もちろん原因はいくつも挙げられる。お金がないこと、おべんきょうができないこと、etcetc。
ただ、この「生きづらさ」の感覚は、それら各要素の単純な総和、というよりはむしろ、要素同士がお互いに結びついて互いに腐食しあい、
やがて空間そのものが腐臭を放ち始め、そこにあったはずの健全なものものすべても吐き気に侵されていくような、そんな類の気持ちの悪さだ。
 この文章は、言ってみればゲロである。吐き気から逃れたくて、出せばいくらかは楽になる、だけれど決して解決はしない。しかし、どうにも出さざるを得ない。
そんな類の、ゲロである。
 ゲロの出し方には幾つか方法があった気がする。”友人”へぶちまけること、こうして文章にすること、そして何より、”思い人”にぶちまけること。
ーそう、僕にとって、”思い人”への”懺悔”は、まさに神父への告解と同じような効果があったのだと思う。”思い人”からの反応によって多くの迷いは霧が晴れるように晴れていった、そんな記憶がある。

2
 しかしながら、恋路は封じられた。正確に言えば、恋が実ること、そのものにすべての解決を見なくなった。むしろ答えは、自分が「おんなのこ」になることである、という暫定の答えが一応出たはずだった。
さらに正確を期して言うなら、恋路から「推し」へのシフト、「推し」から自分自身が「おんなのこ(アイドル)」になること、という2段階の変化を経た気がするが、この辺はたぶん今語りたいことではない。

3 自分がおんなのこになることによって解決し得ない諸々
 大抵の答えは恋愛が握るはずで、大きく出ればそこに真理があるはずだった。「真実の愛」を読み換えるなら、「愛こそが真実」であるはずだった。
ところが、何やかんやで恋愛ではなく自分がおんなのこになることがすべてである、と結論づけた気がする。おんなのこ化が、恋路とすべての真実を求める果ての答えであったともしするのなら、
女のこ化の果てに答えがあるはずだ。
だとしたら、この焦燥感は何だろう。そもそも全くかわいくなれないし、そこに向けては精進すべきだと思う、だが、なんだか「生きづらい」。おんなのこ化が求められる場所での欠落は明瞭である。
それに向けてもっと精進しなければならない。僕は完璧なおんなのこアイドルを目指さねばならないのだ。しかし、その「ハレ」の場でないところで、「ケ」の場のところで僕が何か動揺している。
1,に戻るなら、「ケ」の場と「ハレ」の場を全て融解させて甘いチョコレートですべてを溶かし包み込むのが恋愛だとしたら、「推し」の前での「ケ」から「ハレ」には、多少の制約がある。(ないとは言わない。僕自身なんどか救われた。)

4
 「フロイドがどんな分析をして見せても、宗教意識の強いものは恋愛を宗教にまで持ち上げずに満足するものではない。」とは「学生と生活ー恋愛ー」における倉田百三の言である。
僕にとって、恋路を求めることは、恋路の対象への希求でありつつも、どこかもう少し別の、真実への宗教的思索でありつづけた、少なくとも何か文献的なものとの思索と極めて相性がいい何かであったような気がする。
ところが、「おんなのこ」化における真実への希求とは、文献を介しての思索、ことばによる考えではなくて、動きと造形と明星し難い現実性、の方にある。言うてしまえば言葉と相性がやや悪い。
僕はここで混乱に陥る。動きや造形へと自分の視野が広がっていくような、ひらけの感覚をこの半年で得た気がするのだが、これまで抱いていた何かへの過度な信頼がぐちゃぐちゃになってしまったような気がするのだ。
僕の求道は、言葉の次元から動きと造形の次元へと主戦場が変化してしまったのではないか?その統合みたいなことをしたかった時期もあったような気もするが、今の僕の身体はどうやら動きと造形の主戦場がほんとうに目指すべき主戦場であってほしいと願ってしまっているようなのだ。
 だが、「動きと造形の次元」での真実への道がひらけたところで、単純に真実を求めるこころとは別に、自分の中で言葉や文献という手段に過ぎないものへの固執があり続けていることを感じる

5
 最近何か、教養主義的なものへの吐き気を覚えるようになっていた。ざっくり言えば僕の中で教養主義・文献を介しての思索・精神的恋愛が結びついていて、「精神的恋愛」の領野を僕がはみでることでの混乱、と言えるのかもしれないが、おそらくもう少し事態はうじゃうじゃとしている。そんなに教養が偉いんか、と唾を吐き捨てたい気持ちでいっぱいである。そこに何かナルシズム的な匂いをかぎとり、(この辺は千葉雅也案件だが)何かうじゃうじゃと僕の中で腐食が始まってくる。そして当然、これは自分の一部や過去の自分をも攻撃する。吐き気。大いに吐き気。何もかもが否定すべきもののように思えてくる。
最後に言っておくが、このブログを読んでくれる人がいるとすれば、あなただけは例外である。口では色々言っていても、この<一般論>からの例外があなたである。あなたに僕は吐き気を感じない。
しかし、上の2、3文を打っている僕自身には物凄い吐き気を感じる。そもそも、僕は最近僕自身が使う言葉へのコンプレックスが増して言っている。僕がこうして何かひとことでも発するたびに、何も喋りたくないような気持ちに、喋って、書いて本当に申し訳ない、一生何も書けなくなった方が良いのではないか、という気にすらなる。

6
5.を書いた後にコスプレ用のアカウントを開いたら急に心が晴れた。やんやん♡ちゅっちゅ♡ やはりおんなのことしての自分と、何か書いているときの自分とには深刻なギャップがある。
おんなのことしての自分は書いている自分に用意に取り込まれるが、書いている自分をおんなのこの自分はなかなか取り込んではくれない。

7 追記
 最近「ゲロ」をぶちまけたくて、ついきゃすをやりたくて仕方がない(去年はついきゃすでゲロをぶちまけていた気がする)が、どうにもできない。誰もこなかったら怖いし、
そもそも表のアカウントでのついーとをなぜか自粛しているように、何か僕が表に出て誰かと会話するのがつらい。