僕は労働ができない

1.金がない。学費がない。

 京大には授業料免除というシステムがある。ある程度の成績と単位数をこなせていれば、実家の経済状況によっては半額または全額の学費免除が得られる、というものだ。実は僕はこの三年間、全額で学費免除を受けていた。僕の実家は、収入的に見ればかなりの貧乏である(父方の祖父の遺産が少しあったり、母方の祖父母が隣に越してきたりしたのでまだ「持ちこたえている」のではあるが。)(こんな家の一人息子が就職を意地でもしようとしない・そもそも出来ない、のは我が親のことながら、なんて酷い息子を持ってしまったのだ、と思わざるを得ない。)。

 ところが悲劇は起こってしまった。三回後期のレポート大量崩壊により、本来取得するはずだった二十数単位が消えてゆき、ほぼほぼ授業料免除が絶望的になった。

 加えて言うなら、予定通りというべきか(もし単位が取れていたとしても、今のままでは院試に落ちていただろう)、留年がだいたい確定した。授業料免除の非適用・留年により、四回後期を休学するにしても、三期ぶん、計八十万円を僕は払わなければならないこととなった。

 

2.バイトがない

 現在、僕は無職である。派遣登録にいくつか登録しているが、なぜか大阪の事務所だけにしか登録していない、朝から働くのが苦痛、そもそも現在感染症が危惧される状況で不用意に不特定多数が集まる所に行きたくない、そもそも仕事も少ない等々で、派遣バイトには行けていない。納めるべき水道料金は一年間まったく払えておらず、学生支援支援課から一万円の借金をしたことも、一度や二度ではない。

 とはいえ、僕とてこの経済状況を手をこまねいて見ていたわけではない。目の前や将来(ずたぼろ院生生活)のことを考えては、色々なバイトに応募しては落ち、応募しては落ち、やっと受かったコンビニバイトで心を壊し、やめ、以後応募しては落ち、の繰り返しである。

 

3.バイトをどうしよう

 文章を買いているうちに飽きてしまった。早めに締めようと思う。

 いずれにせよ問題は金策である。2.で記したバイトに応募、期待、将来設計、落ちる、応募、将来設計、落ちる、応募、将来設計、落ちる、の果てしない繰り返しの中で行われた思考をまた繰り返すことになるかもしれないが、もう一度確認しておこう。

 

(飽きた そのうち) 

 

 

 

 

僕は労働ができない

1.金がない。学費がない。

 京大には授業料免除というシステムがある。ある程度の成績と単位数をこなせていれば、実家の経済状況によっては半額または全額の学費免除が得られる、というものだ。実は僕はこの三年間、全額で学費免除を受けていた。僕の実家は、収入的に見ればかなりの貧乏である(父方の祖父の遺産が少しあったり、母方の祖父母が隣に越してきたりしたのでまだ「持ちこたえている」のではあるが。)(こんな家の一人息子が就職を意地でもしようとしない・そもそも出来ない、のは我が親のことながら、なんて酷い息子を持ってしまったのだ、と思わざるを得ない。)。

 ところが悲劇は起こってしまった。三回後期のレポート大量崩壊により、本来取得するはずだった二十数単位が消えてゆき、ほぼほぼ授業料免除が絶望的になった。

 加えて言うなら、予定通りというべきか(もし単位が取れていたとしても、今のままでは院試に落ちていただろう)、留年がだいたい確定した。授業料免除の非適用・留年により、四回後期を休学するにしても、三期ぶん、計八十万円を僕は払わなければならないこととなった。

 

2.バイトがない

 現在、僕は無職である。派遣登録にいくつか登録しているが、なぜか大阪の事務所だけにしか登録していない、朝から働くのが苦痛、そもそも現在感染症が危惧される状況で不用意に不特定多数が集まる所に行きたくない、そもそも仕事も少ない等々で、派遣バイトには行けていない。納めるべき水道料金は一年間まったく払えておらず、学生支援支援課から一万円の借金を借りたことも、一度や二度ではない。

 とはいえ、僕とてこの経済状況を手をこまねいて見ていたわけではない。目の前や将来(ずたぼろ院生生活)のことを考えては、色々なバイトに応募しては落ち、応募しては落ち、やっと受かったコンビニバイトで心を壊し、やめ、以後応募しては落ち、の繰り返しである。

 

3.バイトをどうしよう

 文章を買いているうちに飽きてしまった。早めに締めようと思う。

 いずれにせよ問題は金策である。2.で記したバイトに応募、期待、将来設計、落ちる、応募、将来設計、落ちる、応募、将来設計、落ちる、の果てしない繰り返しの中で行われた思考をまた繰り返すことになるかもしれないが、もう一度確認しておこう。

 

(飽きた そのうち) 

 

 

 

 

自分でもよくわからない乱文ー端的に言えば心が辛い

自分でもよくわからない乱文ー端的に言えば心が辛い

1
 もやもやして心が辛い。手垢に塗れつつあることばで言うなら、「生きづらい」というやつだ。
もちろん原因はいくつも挙げられる。お金がないこと、おべんきょうができないこと、etcetc。
ただ、この「生きづらさ」の感覚は、それら各要素の単純な総和、というよりはむしろ、要素同士がお互いに結びついて互いに腐食しあい、
やがて空間そのものが腐臭を放ち始め、そこにあったはずの健全なものものすべても吐き気に侵されていくような、そんな類の気持ちの悪さだ。
 この文章は、言ってみればゲロである。吐き気から逃れたくて、出せばいくらかは楽になる、だけれど決して解決はしない。しかし、どうにも出さざるを得ない。
そんな類の、ゲロである。
 ゲロの出し方には幾つか方法があった気がする。”友人”へぶちまけること、こうして文章にすること、そして何より、”思い人”にぶちまけること。
ーそう、僕にとって、”思い人”への”懺悔”は、まさに神父への告解と同じような効果があったのだと思う。”思い人”からの反応によって多くの迷いは霧が晴れるように晴れていった、そんな記憶がある。

2
 しかしながら、恋路は封じられた。正確に言えば、恋が実ること、そのものにすべての解決を見なくなった。むしろ答えは、自分が「おんなのこ」になることである、という暫定の答えが一応出たはずだった。
さらに正確を期して言うなら、恋路から「推し」へのシフト、「推し」から自分自身が「おんなのこ(アイドル)」になること、という2段階の変化を経た気がするが、この辺はたぶん今語りたいことではない。

3 自分がおんなのこになることによって解決し得ない諸々
 大抵の答えは恋愛が握るはずで、大きく出ればそこに真理があるはずだった。「真実の愛」を読み換えるなら、「愛こそが真実」であるはずだった。
ところが、何やかんやで恋愛ではなく自分がおんなのこになることがすべてである、と結論づけた気がする。おんなのこ化が、恋路とすべての真実を求める果ての答えであったともしするのなら、
女のこ化の果てに答えがあるはずだ。
だとしたら、この焦燥感は何だろう。そもそも全くかわいくなれないし、そこに向けては精進すべきだと思う、だが、なんだか「生きづらい」。おんなのこ化が求められる場所での欠落は明瞭である。
それに向けてもっと精進しなければならない。僕は完璧なおんなのこアイドルを目指さねばならないのだ。しかし、その「ハレ」の場でないところで、「ケ」の場のところで僕が何か動揺している。
1,に戻るなら、「ケ」の場と「ハレ」の場を全て融解させて甘いチョコレートですべてを溶かし包み込むのが恋愛だとしたら、「推し」の前での「ケ」から「ハレ」には、多少の制約がある。(ないとは言わない。僕自身なんどか救われた。)

4
 「フロイドがどんな分析をして見せても、宗教意識の強いものは恋愛を宗教にまで持ち上げずに満足するものではない。」とは「学生と生活ー恋愛ー」における倉田百三の言である。
僕にとって、恋路を求めることは、恋路の対象への希求でありつつも、どこかもう少し別の、真実への宗教的思索でありつづけた、少なくとも何か文献的なものとの思索と極めて相性がいい何かであったような気がする。
ところが、「おんなのこ」化における真実への希求とは、文献を介しての思索、ことばによる考えではなくて、動きと造形と明星し難い現実性、の方にある。言うてしまえば言葉と相性がやや悪い。
僕はここで混乱に陥る。動きや造形へと自分の視野が広がっていくような、ひらけの感覚をこの半年で得た気がするのだが、これまで抱いていた何かへの過度な信頼がぐちゃぐちゃになってしまったような気がするのだ。
僕の求道は、言葉の次元から動きと造形の次元へと主戦場が変化してしまったのではないか?その統合みたいなことをしたかった時期もあったような気もするが、今の僕の身体はどうやら動きと造形の主戦場がほんとうに目指すべき主戦場であってほしいと願ってしまっているようなのだ。
 だが、「動きと造形の次元」での真実への道がひらけたところで、単純に真実を求めるこころとは別に、自分の中で言葉や文献という手段に過ぎないものへの固執があり続けていることを感じる

5
 最近何か、教養主義的なものへの吐き気を覚えるようになっていた。ざっくり言えば僕の中で教養主義・文献を介しての思索・精神的恋愛が結びついていて、「精神的恋愛」の領野を僕がはみでることでの混乱、と言えるのかもしれないが、おそらくもう少し事態はうじゃうじゃとしている。そんなに教養が偉いんか、と唾を吐き捨てたい気持ちでいっぱいである。そこに何かナルシズム的な匂いをかぎとり、(この辺は千葉雅也案件だが)何かうじゃうじゃと僕の中で腐食が始まってくる。そして当然、これは自分の一部や過去の自分をも攻撃する。吐き気。大いに吐き気。何もかもが否定すべきもののように思えてくる。
最後に言っておくが、このブログを読んでくれる人がいるとすれば、あなただけは例外である。口では色々言っていても、この<一般論>からの例外があなたである。あなたに僕は吐き気を感じない。
しかし、上の2、3文を打っている僕自身には物凄い吐き気を感じる。そもそも、僕は最近僕自身が使う言葉へのコンプレックスが増して言っている。僕がこうして何かひとことでも発するたびに、何も喋りたくないような気持ちに、喋って、書いて本当に申し訳ない、一生何も書けなくなった方が良いのではないか、という気にすらなる。

6
5.を書いた後にコスプレ用のアカウントを開いたら急に心が晴れた。やんやん♡ちゅっちゅ♡ やはりおんなのことしての自分と、何か書いているときの自分とには深刻なギャップがある。
おんなのことしての自分は書いている自分に用意に取り込まれるが、書いている自分をおんなのこの自分はなかなか取り込んではくれない。

7 追記
 最近「ゲロ」をぶちまけたくて、ついきゃすをやりたくて仕方がない(去年はついきゃすでゲロをぶちまけていた気がする)が、どうにもできない。誰もこなかったら怖いし、
そもそも表のアカウントでのついーとをなぜか自粛しているように、何か僕が表に出て誰かと会話するのがつらい。

ミナリンスキーさんのメイドブログ❤️❤️❤️

 ご主人様の皆さん、こんばんわ❤️(おはよう、こんにちは、かな?)

○○○(店名)のミナリンスキーです❤️

今日はお休みだったので、アキバの○○○(スイーツ屋さん)に行ってきました!

 

 

   (かわいらしいケーキの写真)

 

 

ふわふわでジューシーで、とっても美味しかったです❤️

 

 

今日のブログ担当は、ミナリンスキーでした!

好ましからぬ貪欲さ ー 移り気について<1> 月見バーカー

 つい今しがた、出し抜けに楽器を学びたくなった。

Aqours の WATER BLUE NEW WORLD を演奏した動画を見て、それが良い感じに思えたのだ。

 その直後、今度は絵を学びたくなった。

作業用BGMとして流していた、μ'sメドレーに居た矢澤さんの造形が妙に気になった。仮に自分で描くとしたらこういう筆さばきなのか、という感じが何ら前触れなく訪れた。

 思い起こしてみると、午前中には作詞をしてみたくなっていた。今日は雪が舞っているので Snow halation を聴いていると、雪が降っている最中に「微熱」という言葉を持ってくるのめちゃくちゃいいな〜と気づき、おもむろに数曲、畑亜貴の詞をノートに書き写してみたりした。

 

 犬はよろこび庭駆け回り、ではないが、僕の脳みそもどうやら軽佻浮薄に上滑りしている感じがある。あるいは「多動的」とでも言えばいいのだろうか、とにかくそんな状態にある。

 

 しかしふと振り返ってみれば、この軽々しさは何も今日に始まったことではない。図書館であっこの本読もう、あっやっぱりこの本がいい、と数冊借りて家に帰ると、まったく読む気がしなくなる。1日単位、1ヶ月単位と期間の長短は勿論あるにせよ、どうにも僕の興味は移り気で、飽きっぽい。

 これがうまく働けば、何に関してもそこそこできる、多彩な「器用貧乏」になれるのかもしれないが、残念ながら万事要領が悪い僕は、悪戦苦闘しつつもその分野の最初のハードルが飛び越えられない。あるいは最初のハードルを飛び越えたところで満足してしまい、その先へ、先へ先へと極めることができない。言ってみれば僕は単なる「不器用貧乏」である。まあ実際にお金ないし貧乏だよねってやかましいわ。そういう話ちゃうねん。

 いや、実はそれも実生活のお金のなさに絡むのかもしれない。理由は千差万別であるが、半年以上続いたバイトはない。一方趣味っぽいことにじゃぶじゃぶお金をつぎ込むので預金はしばしば4桁、ひどい時には3桁、2桁に突入する。

 話が逸れた。いずれにせよ、どうにも僕は移り気で、一介のなにがしかになることができない。

 

筆のすすみが悪くなった。気が向いたら続きを書く。

 要点としては、身の回りにいる「すごい人」、知的に貪欲な人々も、実は僕と同様に、興味の範囲は広い。彼らは彼らなりに自分は移り気だと評するのではあろうが、明らかに僕と、歴然とした「差」がある。僕の場合は、たとえば1年前に興味を持って「これから勉強しよう」と思ったものについて、本を読んでうーんうーん唸っているうちに無自覚的に開く頻度が減り、気づけば何の知のアップデートがないままにして1年が経過している。一方彼らには、確かな進歩が、あるいは深まりがある。同じ「移り気」、「ぼくは○○をよく知らない」という言葉でも、彼らと僕には、月とすっぽんほどの差がある。

雪の降る昼

雪が降っている。

 

今僕は某所でカフェ乞食をしているが、窓の外をみやってみれば、

桜吹雪と見紛うばかりの、白くてふわふわしたものが、風に吹かれてひらひら舞っている。

 

 

思えば、僕が京都に越してきてから、昼間に雪が降りしきるのは、これが初めてではなかろうか。

 

こんな日は、不思議と心が軽やかになる。

冷たい雪のはずなのに、なぜだか胸が暖かい。

 

灰色の世界と<例外>

<1>

 世界は灰色ののっぺらぼうだ。

 僕の文章は内省に始まり、外界に対しての「驚き」から始まることがない。

 

 昨日、レトリックに関する本を読んだ。本曰く、文章の上達のためには1日400字(原稿用紙1枚)で、1日の所感を書いてみるのが良いと云う。最初は電車の中で若者がうるさかった、夕日が美しかった、等の事後報告になるかもしれないが、だんだんと経験を経て行くうちに、文章もそれなりのものになっていく、だいたいそんな主旨だった。注目したいのは、ここで例示されているものは、「若者」がうるさい、「夕日」が美しい、など、何か外の事物に対して抱いた感情や思いを述べることであるということだ。

 一方で、ふと僕をふりかえってみると、僕はたぶん、外界に対する解像度が低い。世界の美しさに対する感受性が低い。たぶん、僕にとって通常、世界とはどこまでものっぺらぼうで灰色で、均質なものである。

 むしろ、世界は美しいと言い切る人々を、どこかで憎む節がある。何かが「くさい」と思ってしまう。日常の一つ一つに機微が、繊細さが、豊饒があってたまるか、いわゆるある種の「美しい文章」、日常の中に潜む美しさをうたう文章を目にしたとき、いわく抗いがたい反感が、しばしば僕に訪れる。

 

<2>

 僕は文章を書くことが、絶望的に下手だ。下手さの一つを挙げるなら、文章の構成が下手だ。いま、<1>の直後に脳裏に浮かんだ内容が、<1>がゆくべき流れを裏切り、どこか異なる場所へと辿りつきそうな気がした。だから苦肉の策として、<1>、<2>と分けた。内容的には密接に関連するかもしれないし、まったく関連しないかもしれない。

 <1>の文章では、僕が「憎む」文章の具体例を取り上げることが、意図的に避けられている。これは間違いなく、これを読む人が(居ればの話だが)、自分の文章も僕に憎まれているのではないか、と思うことを恐れたからである。結論だけ言えば、僕はこれを読む人の文章を憎むことはない。奇妙な言い方かもしれないが、どんなに<1>で語ったような文章が、あなたの文章そのものであっても、僕はあなたの文章を憎まない。この記事を読むあなたの文章だけは、僕にとっての例外なのである。

 この例外は、一面には利害的な、相互不可侵の打診である。僕はあなたを、あなたの文章を攻撃しない。だからあなたも、僕を攻撃しないでくれ。しかし一面には、確かに「愛」なる言葉で近似される何かであるはずだ。

 

<3>

 僕は例外だと思っていた。 Aなる言明があって、それに僕があてはまるのではないか、というケースでさえも、僕はその例外、であるはずだ(「ではないか」という確実でなさが、ひとつ重要なことである気がする)、そんな風に無根拠に思い込んでいた。

 もともと例外に根拠はない。一度自分が例外ではないのではないか、と疑い始めると、その根拠のなさに突き当たる。それでも例外だと思い込めるなら、それはたぶん、皮肉抜きに大変良いことである。だがしかし、例外だと思い込めないのなら、あらゆる言葉が自分を攻撃しているように見える。あらゆる言葉が、自分を攻撃しうるような潜在能力を持つものとして映る。

 何より救えないのが、自分がこうした立場にあることを自覚したとき、他の自分、自分が感情移入することによって想定された、想像上の他者とでも言えばいいのだろうか、そんな自分も同じように感じている、という想像がつく。しかしながら、僕のもとには<1>で書いたような、日常の美しさに自家中毒的になるような文章への嫌悪が訪れる。何が日常の美しさだ、日常は灰色で非日常だけが美しいのだ、なにかそんな敵意が自然と僕を駆り立て、ときには僕を攻撃的な文章を書くことに駆り立てるのだ。敵意に満ちた文章を、反発に満ちた言葉を、自分を例外だと思えない他の自分が見たらどう思うのか。少し考えればわかるはずなのに、僕は敵意を、攻撃をふりまいてしまう。

 

  ーちなみに、だからこそ(日常が灰色で非日常だけが美しいからこそ)恋愛だけが非日常で、憧れだけが美しくて、他の日常は、均質な人工物である、そんな風に思えてしまう。僕は性愛を聖愛としてみなさずに、日常に溶け込ませるような言説に、宿命的な怒りを覚える。性行為だけを目的としたいわゆる恋愛工学的なもの、性行為をデーモニッシュなものではなくて日常的なものとみるべきだうんぬん、恋愛を他の人間関係と並列なありふれたものとして描くような発言(「恋愛というよりは一人の人間として」)に、僕は宿命的な怒りと、しばしば欺瞞を感じてしまう。ここには聖愛がない。しかしそれは「感じてしまう」という、いわばファーストインプレッションである。少し考えてみれば、これは僕にとってのリアリティであって、これらの発言の主はまた別のリアリティを持ってこうした発言をしているはずだとすぐにわかる。そもそも何の権利があって、僕は僕以外の恋愛言説へと踏み込んで居るのだろう。ーもちろん、何の権利もないはずだ。そして何より、こうした「敵意」はなにか抽象化されたケース、あるいは概念に対する何かしらの敵意であるはずなのだ。だが当然、「他の自分」は僕の敵意を、自分への敵意と受け取るだろう。そして、自分が例外と思えないとき、心が破壊される。一切の人との交流を絶ちたくなる。あるいは正当な権利を持って、反論する。

 

<4>

 僕は言説に敵意を向けるべきではない。同時に僕は僕が完全に間違っている、思い込みや偏見にとらわれているとも思わない。僕にとってのリアリティは僕と、それに類する人にとってのリアリティである。だが、僕でない人にとってのリアリティは、その人とそれに類する人にとってのリアリティである。問題なのは、リアリティが千差万別であるからこそ、リアリティは相対化されるべし、という言説だ。それは一見公平なようで居て、ある種のリアリティを持つ立場に、特異的に肩入れしているような、買収された裁判官ではありえないだろうか。

 

<5>

 思い込みや偏見でないこと、を説明するためには、説得が必要である。自分のリアリティを訴えるための、説得が。だがこの説得の能力がないときに、僕たちはどうすれば良いのだろうか。論理として、利発さとして現れるにせよ、あるいは文章の上手さとして現れるにせよ、それがない者はどうやって自分のリアリティが真にリアルだと説得すれば良いのだろうか。

 

<6>

  僕はこの文章が、説得であることと同時に、説得でないことを望んでいる。

自分のリアリティは相対主義に、睥睨する視点に対抗するリアルであることを訴えたい。証明したい(だれに?証明ということば自体がキナ臭い)。だがそうしてしまうと、能力ないものがどうやって生きて行くか、能力がないがゆえに、言説の攻撃に反論することもできず、そして自分を愛される者、例外だと信じられない者が、どうやって生きていけばいいのか、その問に向き合えなくなってしまう。

 

 世界は灰色ののっぺらぼうであるべきだ。

日常が灰色ののっぺらぼうでないと、真実が際立たない。

 

 僕の文章は、まばゆい外界に対しての「驚き」から始まることがない。

 外の世界は、内面を脅かす脅威として、吐き気を催すような脅威としてあらわれるときに、たぶんはじめて自己主張する。