好ましからぬ貪欲さ ー 移り気について<1> 月見バーカー

 つい今しがた、出し抜けに楽器を学びたくなった。

Aqours の WATER BLUE NEW WORLD を演奏した動画を見て、それが良い感じに思えたのだ。

 その直後、今度は絵を学びたくなった。

作業用BGMとして流していた、μ'sメドレーに居た矢澤さんの造形が妙に気になった。仮に自分で描くとしたらこういう筆さばきなのか、という感じが何ら前触れなく訪れた。

 思い起こしてみると、午前中には作詞をしてみたくなっていた。今日は雪が舞っているので Snow halation を聴いていると、雪が降っている最中に「微熱」という言葉を持ってくるのめちゃくちゃいいな〜と気づき、おもむろに数曲、畑亜貴の詞をノートに書き写してみたりした。

 

 犬はよろこび庭駆け回り、ではないが、僕の脳みそもどうやら軽佻浮薄に上滑りしている感じがある。あるいは「多動的」とでも言えばいいのだろうか、とにかくそんな状態にある。

 

 しかしふと振り返ってみれば、この軽々しさは何も今日に始まったことではない。図書館であっこの本読もう、あっやっぱりこの本がいい、と数冊借りて家に帰ると、まったく読む気がしなくなる。1日単位、1ヶ月単位と期間の長短は勿論あるにせよ、どうにも僕の興味は移り気で、飽きっぽい。

 これがうまく働けば、何に関してもそこそこできる、多彩な「器用貧乏」になれるのかもしれないが、残念ながら万事要領が悪い僕は、悪戦苦闘しつつもその分野の最初のハードルが飛び越えられない。あるいは最初のハードルを飛び越えたところで満足してしまい、その先へ、先へ先へと極めることができない。言ってみれば僕は単なる「不器用貧乏」である。まあ実際にお金ないし貧乏だよねってやかましいわ。そういう話ちゃうねん。

 いや、実はそれも実生活のお金のなさに絡むのかもしれない。理由は千差万別であるが、半年以上続いたバイトはない。一方趣味っぽいことにじゃぶじゃぶお金をつぎ込むので預金はしばしば4桁、ひどい時には3桁、2桁に突入する。

 話が逸れた。いずれにせよ、どうにも僕は移り気で、一介のなにがしかになることができない。

 

筆のすすみが悪くなった。気が向いたら続きを書く。

 要点としては、身の回りにいる「すごい人」、知的に貪欲な人々も、実は僕と同様に、興味の範囲は広い。彼らは彼らなりに自分は移り気だと評するのではあろうが、明らかに僕と、歴然とした「差」がある。僕の場合は、たとえば1年前に興味を持って「これから勉強しよう」と思ったものについて、本を読んでうーんうーん唸っているうちに無自覚的に開く頻度が減り、気づけば何の知のアップデートがないままにして1年が経過している。一方彼らには、確かな進歩が、あるいは深まりがある。同じ「移り気」、「ぼくは○○をよく知らない」という言葉でも、彼らと僕には、月とすっぽんほどの差がある。