灰色の世界と<例外>

<1>

 世界は灰色ののっぺらぼうだ。

 僕の文章は内省に始まり、外界に対しての「驚き」から始まることがない。

 

 昨日、レトリックに関する本を読んだ。本曰く、文章の上達のためには1日400字(原稿用紙1枚)で、1日の所感を書いてみるのが良いと云う。最初は電車の中で若者がうるさかった、夕日が美しかった、等の事後報告になるかもしれないが、だんだんと経験を経て行くうちに、文章もそれなりのものになっていく、だいたいそんな主旨だった。注目したいのは、ここで例示されているものは、「若者」がうるさい、「夕日」が美しい、など、何か外の事物に対して抱いた感情や思いを述べることであるということだ。

 一方で、ふと僕をふりかえってみると、僕はたぶん、外界に対する解像度が低い。世界の美しさに対する感受性が低い。たぶん、僕にとって通常、世界とはどこまでものっぺらぼうで灰色で、均質なものである。

 むしろ、世界は美しいと言い切る人々を、どこかで憎む節がある。何かが「くさい」と思ってしまう。日常の一つ一つに機微が、繊細さが、豊饒があってたまるか、いわゆるある種の「美しい文章」、日常の中に潜む美しさをうたう文章を目にしたとき、いわく抗いがたい反感が、しばしば僕に訪れる。

 

<2>

 僕は文章を書くことが、絶望的に下手だ。下手さの一つを挙げるなら、文章の構成が下手だ。いま、<1>の直後に脳裏に浮かんだ内容が、<1>がゆくべき流れを裏切り、どこか異なる場所へと辿りつきそうな気がした。だから苦肉の策として、<1>、<2>と分けた。内容的には密接に関連するかもしれないし、まったく関連しないかもしれない。

 <1>の文章では、僕が「憎む」文章の具体例を取り上げることが、意図的に避けられている。これは間違いなく、これを読む人が(居ればの話だが)、自分の文章も僕に憎まれているのではないか、と思うことを恐れたからである。結論だけ言えば、僕はこれを読む人の文章を憎むことはない。奇妙な言い方かもしれないが、どんなに<1>で語ったような文章が、あなたの文章そのものであっても、僕はあなたの文章を憎まない。この記事を読むあなたの文章だけは、僕にとっての例外なのである。

 この例外は、一面には利害的な、相互不可侵の打診である。僕はあなたを、あなたの文章を攻撃しない。だからあなたも、僕を攻撃しないでくれ。しかし一面には、確かに「愛」なる言葉で近似される何かであるはずだ。

 

<3>

 僕は例外だと思っていた。 Aなる言明があって、それに僕があてはまるのではないか、というケースでさえも、僕はその例外、であるはずだ(「ではないか」という確実でなさが、ひとつ重要なことである気がする)、そんな風に無根拠に思い込んでいた。

 もともと例外に根拠はない。一度自分が例外ではないのではないか、と疑い始めると、その根拠のなさに突き当たる。それでも例外だと思い込めるなら、それはたぶん、皮肉抜きに大変良いことである。だがしかし、例外だと思い込めないのなら、あらゆる言葉が自分を攻撃しているように見える。あらゆる言葉が、自分を攻撃しうるような潜在能力を持つものとして映る。

 何より救えないのが、自分がこうした立場にあることを自覚したとき、他の自分、自分が感情移入することによって想定された、想像上の他者とでも言えばいいのだろうか、そんな自分も同じように感じている、という想像がつく。しかしながら、僕のもとには<1>で書いたような、日常の美しさに自家中毒的になるような文章への嫌悪が訪れる。何が日常の美しさだ、日常は灰色で非日常だけが美しいのだ、なにかそんな敵意が自然と僕を駆り立て、ときには僕を攻撃的な文章を書くことに駆り立てるのだ。敵意に満ちた文章を、反発に満ちた言葉を、自分を例外だと思えない他の自分が見たらどう思うのか。少し考えればわかるはずなのに、僕は敵意を、攻撃をふりまいてしまう。

 

  ーちなみに、だからこそ(日常が灰色で非日常だけが美しいからこそ)恋愛だけが非日常で、憧れだけが美しくて、他の日常は、均質な人工物である、そんな風に思えてしまう。僕は性愛を聖愛としてみなさずに、日常に溶け込ませるような言説に、宿命的な怒りを覚える。性行為だけを目的としたいわゆる恋愛工学的なもの、性行為をデーモニッシュなものではなくて日常的なものとみるべきだうんぬん、恋愛を他の人間関係と並列なありふれたものとして描くような発言(「恋愛というよりは一人の人間として」)に、僕は宿命的な怒りと、しばしば欺瞞を感じてしまう。ここには聖愛がない。しかしそれは「感じてしまう」という、いわばファーストインプレッションである。少し考えてみれば、これは僕にとってのリアリティであって、これらの発言の主はまた別のリアリティを持ってこうした発言をしているはずだとすぐにわかる。そもそも何の権利があって、僕は僕以外の恋愛言説へと踏み込んで居るのだろう。ーもちろん、何の権利もないはずだ。そして何より、こうした「敵意」はなにか抽象化されたケース、あるいは概念に対する何かしらの敵意であるはずなのだ。だが当然、「他の自分」は僕の敵意を、自分への敵意と受け取るだろう。そして、自分が例外と思えないとき、心が破壊される。一切の人との交流を絶ちたくなる。あるいは正当な権利を持って、反論する。

 

<4>

 僕は言説に敵意を向けるべきではない。同時に僕は僕が完全に間違っている、思い込みや偏見にとらわれているとも思わない。僕にとってのリアリティは僕と、それに類する人にとってのリアリティである。だが、僕でない人にとってのリアリティは、その人とそれに類する人にとってのリアリティである。問題なのは、リアリティが千差万別であるからこそ、リアリティは相対化されるべし、という言説だ。それは一見公平なようで居て、ある種のリアリティを持つ立場に、特異的に肩入れしているような、買収された裁判官ではありえないだろうか。

 

<5>

 思い込みや偏見でないこと、を説明するためには、説得が必要である。自分のリアリティを訴えるための、説得が。だがこの説得の能力がないときに、僕たちはどうすれば良いのだろうか。論理として、利発さとして現れるにせよ、あるいは文章の上手さとして現れるにせよ、それがない者はどうやって自分のリアリティが真にリアルだと説得すれば良いのだろうか。

 

<6>

  僕はこの文章が、説得であることと同時に、説得でないことを望んでいる。

自分のリアリティは相対主義に、睥睨する視点に対抗するリアルであることを訴えたい。証明したい(だれに?証明ということば自体がキナ臭い)。だがそうしてしまうと、能力ないものがどうやって生きて行くか、能力がないがゆえに、言説の攻撃に反論することもできず、そして自分を愛される者、例外だと信じられない者が、どうやって生きていけばいいのか、その問に向き合えなくなってしまう。

 

 世界は灰色ののっぺらぼうであるべきだ。

日常が灰色ののっぺらぼうでないと、真実が際立たない。

 

 僕の文章は、まばゆい外界に対しての「驚き」から始まることがない。

 外の世界は、内面を脅かす脅威として、吐き気を催すような脅威としてあらわれるときに、たぶんはじめて自己主張する。